娘の宿題を見ていて、思うことがあります。
それは、漢字の練習量が圧倒的に少ないということです。
漢字の学習は、見開き4文字だけの漢字ドリルノートがわずかに宿題に出される程度で、漢字の練習帳にたくさん書いて覚えてくることを強制されていません。
小学生が自発的に練習なんかするはずもなく、ろくに漢字が書けません。
親が言っても聞くはずもなく、悩ましいものです。
自分が子供の頃はとても熱心な担任の先生が、自身の体験を交えながら、根気強く取り組むことの重要性を説いてくれたものですが、今は果たして?
うちの娘は、テストで100点取れるようになることよりも、そこまでの苦労を嫌う傾向があります。
動機が薄いのかなとも思います。
子供にタブレットが配布され、授業も宿題もかなりの割合でデジタル化されており、文字が書けなくても、入力すれば変換してくれるのですから、必死に練習して書けるようになる必要性をそこまで感じないのも無理はないのかもしれません。
でも、タイピングがうまくなるよりも、丁寧に正しく書けることに、その人の品性がにじみでるのではないかと、私は思います。そして、その書いた文字が、その人であることの証明にもなりうるのではないかとも思います。(娘にはなかなか伝わりません…泣)
肝心要の小学校教育で、基礎的な部分をおろそかにするべきではありません。
タブレットなんて、誰でもすぐに使えるようになります。(そういうふうにできています)
わざわざ子供のうちからタブレット漬けにする必要があるのだろうかと本当に疑問です。
(先生の負担は軽くなるのでしょうけど…)
教育委員会の方で、タブレットを配布する際に一定の使用制限はかけていますが、子供たちはそれをかいくぐって、ゲームをしますし、ネットで検索し、お気に入り画像をダウンロードしたり、動画を見ています。本当に、たくましいものです。また、授業中にもタブレットを使用する機会が多いため、区別なく遊んでしまう子もいるようです。
子供のうちから、ネットリテラシーを習得させようなんて、いいことを言っているようでいて、実はかなり無責任なのではないかと思います。
また、小さい子供がぐずると周りの目が気になってスマホを渡してしまう…なんてこともよくある風景です。そもそも、社会が子供にもっと寛容になってもいいのかな…とも思ったりもしますが、いずれにしても、皆余裕がないのでしょうか…。
一人ひとりが少しずつ譲りあいながら、気持ちよく生きていければ、日本の未来も明るくなるのかな…と思う今日この頃です。